ククルカンとは?生贄をやめたケツァルコアトルと同じ神様?

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マヤ文明やアステカ文明などが栄えたメソアメリカ(中央アメリカ)地域では、古代から「羽毛のある蛇」が神様として崇められてきました。

マヤ文明では「ククルカン」、アステカ文明では「ケツァルコアトル」と呼ばれ、マヤ神話の一つである『ポポル・ヴフ』という書物には「グクマッツ」という名前で登場します。

マヤ文明の代表的な遺跡、チチェン・イッツァには「ククルカン神殿」と呼ばれる巨大ピラミッドがあり、春分の日と秋分の日に「ククルカン降臨現象」が見られる神秘的なスポットです。

最近では『Fate/Grand Order(FGO)』というゲームに「ククルカン」という名前のキャラクターが登場することから、マヤ文明やマヤ暦に触れていなくても興味を持った方がいらっしゃるのではないでしょうか。

この記事ではマヤの神様ククルカンについて、ケツァルコアトルとの違いや人身御供をやめさせたという伝説、チチェン・イッツァのククルカン降臨現象をご紹介します。

目次

ククルカンとは?

ククルカンとは、メキシコのユカタン半島で使われていたマヤ語の一つ、ユカテク語で「羽毛のある蛇」を意味する神様のことです。

ユカタン半島にあるチチェン・イッツァというマヤ文明の遺跡には、ククルカン神殿(別名エル・カスティーヨ)という巨大ピラミッドがあります。

階段下にククルカンの頭部像があり、春分の日と秋分の日に、日光の影によって胴体が現れる「ククルカン降臨現象」が起こる畏怖に満ちたピラミッドです。

ククルカン頭部像
ククルカン降臨現象

ククルカン神殿は四面に91段の階段があり、最上階の神殿に続く階段を合わせると合計365段になります。

つまり太陽暦に合わせた設計となっており、ククルカンは太陽神として崇められていたようです。

また、太陽暦は農耕に欠かせない暦であり、種まきと実りの象徴でもある春分と秋分にククルカンが降臨するように設計されていることから、豊穣の神様でもあったと考えられます。

ただ、16世紀に宣教師としてユカタン半島へ渡り、当時のマヤの人々の生活を詳細に記録したディエゴ・デ・ランダの記述によると、「ククルカンは西からやって来た存在である」と信じられていたそうです。

ユカタン半島から見て西の方角には、アステカ文明が栄えたメキシコ中央高原があります。

アステカ文明では「ケツァルコアトル」という名称で、羽毛のある蛇が神様として崇拝されていました。

ケツァルコアトルとククルカンの関係性

ケツァルコアトル
出典:Wikipedia

まず、マヤ文明とアステカ文明の違いについてですが、大きな違いは栄えた地域です。

マヤ文明はユカタン半島を含むメキシコ南東部からベリーズ、グアテマラなどにかけて、アステカ文明はメキシコ中央部で栄えました。

しかし、アステカ文明でもマヤ暦のツォルキン(神聖暦)と同じ260日暦が使われていたり、都市の造りが似ていたり、生贄の風習があったりと、マヤ文明との共通点が多いためつい混同してしまいます。

ちなみにマチュピチュで有名なインカ文明は、南米で栄えた帝国です。

ケツァルコアトルの生贄伝説

アステカ神話には、ケツァルコアトルが生贄に人を供することをやめさせたという伝説があります。

アステカ文明よりもはるか昔、ケツァルコアトルを名乗る王がトゥーラという土地を支配していました。

ケツァルコアトルの御代、近隣の山々でヒスイや金銀の宝が発見され、豊かな富に恵まれていたトゥーラ。

もともと凶事の際に行われていた生け贄の儀式でしたが、平和で食糧にも困らなかったためか、ケツァルコアトル王は人身御供をやめることにしました。

しかし、それをよく思わなかった呪術師によって、トゥーラの国はめちゃくちゃにされ、たくさんの国民が命を落としてしまいます。

ケツァルコアトル王自身も騙されて、妹と関係を持ってしまったことで絶望し、自分の宮殿に火を放ち、財宝を埋め、自らが生贄となって火葬されました。

するとその灰が何羽もの美しい鳥となって空を舞い、金星に姿を変えて天に逃れた、という伝説です。

この神話からケツァルコアトルは、平和の神および金星の神としても崇められるようになりました。

ケツァルコアトル=ククルカン?

トゥーラ遺跡

ケツァルコアトルの生贄伝説にはもう一つのストーリーがあり、それはケツァルコアトルが生贄となって命を落としたのではなく、「黒と赤の地」に移ったという説です。

アステカの方位では黒は北、赤は東を表すので、トゥーラから北東へ行ったとも解釈できます。

トゥーラは現在のメキシコ、イダルゴ州にあるトゥーラ・シココティトラン遺跡とされており、北東というには少々微妙ですが、東に行けばユカタン半島にたどり着きます。

ククルカン神殿が建設されたチチェン・イッツァも、ユカタン半島にある都市です。

上述した通り、チチェン・イッツァの人々は「ククルカンは西からやって来た存在である」と信じていました。

こうなるとやっぱり、トゥーラを出て行ったケツァルコアトル王が、ククルカンとしてチチェン・イッツァを治めたのではないか、と思いたくなりますよね。

真偽のほどは確かめようもありませんが、チチェン・イッツァ遺跡でもトゥーラ遺跡と同じようなものが発掘されていることから、トゥーラの人々が流入してきたことは間違いないようです。

ちなみにケツァルコアトル王がトゥーラを去る時、「1の葦の日に戻る」と言い残したそうです。

その神話を信じていたアステカの人々は、1519年にコンキスタドールのエルナン・コルテスが現れた日がたまたま「1の葦の日」であったため、彼らを神として受け入れてしまったというエピソードがあります。

アステカは1521年、コルテス上陸からたったの2年で滅ぼされてしまいました。

マヤ神話の創造神グクマッツとは?

チチカステナンゴの市場
出典:Wikipedia

ククルカンにはもう一つ、「グクマッツ」という名称もあります。

グクマッツは現在のグアテマラ高地に先住するマヤ民族、キチェー族の言葉で、意味はやはり「羽毛のある蛇」です。

キチェー族に伝わる神話と、キチェー王国建国の歴史が記されている『ポポル・ヴフ』では、太陽神を超越した創造の神様として登場します。

大地を創り、動物を創り、人間を創り、失敗し、洪水で流し去り⋯⋯、と創造神話のお決まりパターンです。

『ポポル・ヴフ』はスペイン征服後も口承されていたキチェの神話を、アルファベットを覚えたキチェ人が、アルファベット表記のキチェ語で書き残したものが原本とされています。

その原本は既に失われているものの、1701年頃にフランシスコ・ヒメネス修道士がキチェ語のまま書き写し、スペイン語の訳を付けたものが現在も残っているのです。

マヤの書物はほとんどすべてが焼き払われてしまっているので、『ポポル・ヴフ』は大変貴重な資料として重宝されています。

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